学問の神様と信仰される菅原道真(すがわらみちざね)は、実在した歴史上の人物です。
「天神様」とも呼ばれ、学業成就や入試合格祈願の神様として知られています。
菅原道真ってどんな人?
菅原道真は平安時代の学者であり、文人や政治家としても活躍した人物です。
道真は代々続く学者の家に生まれ、幼い頃は神童と呼ばれるほど賢い子でした。
33歳で学者の最高位「文章博士(もんじょうはかせ)」になり、その才能は学者だけに留まらず、政治家としても手腕を発揮します。
当時の天皇、宇多天皇の信頼を得て朝廷の中心的な役割を任されると、その能力を活かし、出世街道まっしぐら。順調にエリートコースを歩みます。
道真の人生に暗雲が立ち込めはじめたのは、彼が55歳のころです。
宇多天皇の息子・醍醐天皇が即位すると、道真は天皇の補佐役として右大臣に任命されました。
貴族の出身ではない道真が右大臣に任命されるのは、当時は異例中の異例。
まさに大抜擢でした。
しかし、これを快く思わない人物がいました。
左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)です。
宇多天皇に目をかけられ、出世するにつれて影響力を増す道真に、時平は「自分の地位が脅かされるのでは?」と不安を抱くようになります。
そして道真を陥れるために、醍醐天皇に「道真が謀反を企てている」と、ありもしないことを告げ口したのです。
それを信じた醍醐天皇は激怒。
道真の話にも耳を貸さず、突然、道真を太宰府(現在の福岡県太宰府市)に左遷してしまいました。
この時、道真は57歳でした。
エリートからの転落
太宰府での道真は、形ばかりの役職を与えられ、仕事をさせてもらえませんでした。
周りは貴族出身者ばかりで、学者の家系の道真を快く思わない人達ばかり。
道真は太宰府のトップとして派遣されたのにも関わらず、太宰府に入ることさえ許されませんでした。
お金にも困り、貧しい生活を余儀なくされ、大変苦労したそうです。
そしてわずか2年後、道真は都に帰ることもかなわず失意のうちに亡くなります。
太宰府天満宮は実は菅原道真の埋葬地
道真が亡くなり、埋葬地を探して牛車に遺体を乗せて運んでいたところ、ある場所で牛が急に動かなくなりました。
やむなく道真をその場に葬ることにし、その場所を「安楽寺」と名付けたそうです。
その寺が、やがて太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の基礎となりました。
ちなみに道真が祀られた境内には、牛の像が目立ちます。
道真が丑年生まれであったことに加えて、亡骸を牛で運んでいたことにも由来しているようです。
日本三大「祟り神」に変身
菅原道真の死後、京都では、実に30年以上にわたり異変が起こります。
疫病や飢饉、洪水、大火・・・
更には道真を陥れた藤原時平が、39歳の若さで病死します。
道真の後任についた右大臣、醍醐天皇の皇子も突然死去。そして皇子の息子までもが、相次いで亡くなります。
極めつけは醍醐天皇の住まい、「清涼殿」で会議中に雷が落ち、大勢の死傷者がでたことです。
あまりの現場の惨劇さに、それを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、そのわずか3ヶ月後に崩御してしまいました。
立て続けに色々なことが起こるので、都に住む人々は「これらは菅原道真の祟りに違いない」と噂しました。
祟りを恐れた朝廷は道真の罪を赦し、贈位を行い、菅原道真を神として祀ります。
この時に道真を祀ったのが、北野天満宮(京都市)のはじまりです。
菅原道真を祀る神社は、「天神社」「天満宮」などと称されます。
「天神」は、天から雷を落とした祟り神として「火雷天神」と呼ばれたため。「天満」は、道真の怨念が天に満ちている状態を例えたものです。
菅原道真は、平将門・崇徳上皇と共に「日本三大怨霊」として、後世人々から恐れられました。
功績をたたえて「天神信仰」へ
祟り神として恐れられた道真でしたが、次第に、道真の功績をたたえる風潮が広がります。
優れた学者であった道真の生前の偉業にあやかって、人々に恐れられた天神様は次第に「学問の神様」に変化していきました。
現在では祟り神としてのイメージはなくなり、江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されるようになりました。
現在では学問・芸能・災難厄除・農耕・正直の神様として天神様が祀られた神社は、全国に1万社あるともいわれています。