日本に8万社あるといわれる神社の中で、最も多く祀られているのが「八幡神」です。
八幡神とは、実在したとされる第15代天皇・応神天皇(おうじんてんのう)のこと。
ですが応神天皇がどうして八幡神と呼ばれるようになったのか、その経緯や八幡の語源は不明のままで、応神天皇が本当に実在したのかどうかも解明されていません。
応神天皇はどんな神様?

八幡神は「やはたのかみ」「はちまんしん」などと呼びます。
八幡神社は全国にある神社の中で最も数が多く、総本宮は大分県宇佐市にある宇佐神社です。
総本宮の宇佐神社では八幡神は応神天皇の御神霊とされ、欽明天皇の時代に神様となって宇佐神社に現れたと伝わっています。
※御神霊(ごしんれい)とは、人が死んで神様になったこと。
神として現れた応神天皇は、様々な国の文化・産業を受け入れ、新しい国造りを行い日本の発展に貢献しました。
そして現在の地(大分県宇佐市)に社殿を建て、八幡神として祀られるようになります。
皇室の守り神

八幡信仰が九州から都へ広まったのは、東大寺の大仏建設の時代だといわれています。
八幡神は大仏建設を手助けしたり、政治に介入した僧侶が天皇の位につこうとするのを阻止したり、いろいろなエピソードがある神様。
皇室の様々な危機を助けたことで、天皇家にとって八幡神は自分たちの守り神となり、とても重要な存在として扱うようになりました。
勝利・戦の神

八幡神は天皇家の祖先にあたる神でありながら、やがて武士の間でも信仰されていきます。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先にあたる源義家という人物は、八幡神を崇敬するあまり、自らを「八幡太郎(はちまんたろう)」と名乗ります。
そしてたくさんの場所に八幡神社のもととなる、祠(ほこら)を立てて祀りました。
八幡太郎がきっかけとなって、八幡神は源氏の守り神として信仰されるようになります。
源平合戦で勝利した源頼朝が鎌倉幕府を開く際は、鎌倉に八幡神を祀る「鶴岡八幡宮」をつくらせました。
また、その後の歴代の武家政権も、八幡神を守り神として信仰しました。
こうしたこともあり、多くの武士たちが「八幡神=戦いの神」として認識し、信仰するようになったことで、全国に一気に八幡信仰が広がっていきました。
実は母親のほうが伝説的人物
現在も八幡神を祀る神社には、様々な分野で勝利を願う多くの参拝者が訪れます。
戦の神様として有名な八幡神ですが、実は子育て・安産の神様でもあります。
神功皇后は子育て・安産の神様

八幡神社は必ず「八幡三神」といって、応神天皇と一緒に2柱の神様を祀るのが慣例です。
八幡三神の3柱は神社によって異なりますが、よく応神天皇と祀られているのが応神天皇の母・神功皇后(じんぐうこうごう)です。
神功皇后はとても勇ましく、たくましい女性でした。
夫・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と共に、筑紫の国に出かけた神功皇后は、旅先で夫が急死するという悲劇に見舞われます。
その時、皇后は妊娠中でしかも臨月でした。
ですがそんな身重の体でも、神宮皇后は軍隊を率いて、新羅という国を降伏させてしまいます。
更には皇后は臨月のお腹に石を当ててさらしを巻き、体を冷やすことで産気を鎮め、出産を15ヶ月も遅らせるというスーパーエピソードの持ち主。
出産後も天皇の皇位を狙った反乱を治め、息子が成長するまで政治を行いました。
早くに夫を亡くし、度重なる苦難を乗り越え、息子を天皇の位に導いた神功皇后。
こういったエピソードから、聖母・武芸の神、あるいは子育て・安産の神として、八幡神と共に信仰されるようになります。
応神天皇の別称
- 譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
- 誉田別尊(ほむたわけのみこと)
- 胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)
- 品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
- 大鞆和気命(おおともわけのみこと)
- 品太天皇(ほむだのすめらみこと)
- 凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)